安倍政権が今年の7月、通常国会終了後に行った集団的自衛権行使容認の閣議決定。
そもそも集団的自衛権とはいったい何なのでしょうか?
日本が攻撃された場合に、アメリカにも日本を守ってもらうよう動いてもらう、確かにこれも集団的自衛権ですが、これはアメリカ側の集団的自衛権であって日本の権利ではありません。
アメリカが他国と戦争になった際に、日本も参戦する、それが日本側の集団的自衛権というものです。
要は、関係ない戦争でも日本が積極的に参加する、というものです。
なぜ、安倍政権はこのようなことを進めようとしているのでしょうか?
そして、それと同時に行われているのが、日本で開発製造された武器の外国への輸出。
どんなお題目を並べても、武器とはモノを破壊し、人を殺すための道具です。
戦争とは、人と人とが殺し殺される、倫理も何もないものです。
武力がなかったら他の国が日本に何をしてくるかわからないから武力を持つ必要があるのではないか?という声も時々聞こえますが、武力を持たなけれは本当に危険なのでしょうか?
少し視点をかえてみます。
普段の生活で、「相手が何してくるかわからないから、ナイフを持ち歩こう」「どんなことされるかわからないから、相手にナイフを突きつけて話を聞こう」としてしまっては、相手は話ができない、それどころか相手も反撃をしてくるかもしれません。
実際に銃社会であるアメリカでは、それで何度も悲しい事件が起きています。
これは、普段の生活だけではなく国家同士でも同じではないでしょうか。
今、中国などが日本に対して武力をちらつかせていますが、これは中国が先だったのでしょうか?
私は、どちらかというと、日本が事態の先送りを申し合わせていた合意を無視して、日本側から中国側へけん制をかけた、その結果の反撃であるように感じています。
実際に相手側も、日本側がけん制するようなことをやめて、対話のテーブルにつく姿勢をみせれば、対話をすすめる準備はできているようです。
結局は武力では何も解決しません。
万が一、武力で解決するとしたとしても、戦争になった場合、いったいどのようになったらその戦争は終わるのでしょうか?そして戦争が終わったとして、どちらの国民も納得できる結果となるのでしょうか?
だからこそ、対話というものが一番大切なものになります。
対話を繰り返していても、トラブルになることはあります。それは否めない事実です。
しかし、だからと言って、相手に自分の言うことを聞かせるために武力をちらつかせる、それでは話を余計にこじらせるだけです。
問題の棚上げも含め、対話を何よりも重視する、これは実際に東南アジア諸国連合(ASEAN)でも行われている取り組みです。
そして実際に戦争にはなっていません。
この取り組みを北東アジアにも広げていこう、それが今回の公約なのです!
私が、教師として働いてきたときの教え子(18歳)から、集団的自衛権行使容認の閣議決定された直後、LINEで「そもそも集団的自衛権ってなんなのさ」「俺らが戦争に行かされる」「日本でテロがおきそうな気がする」「俺らに勝手に決めないでほしいよね」というメッセージが入りました。
そして最後に「共産党さんよ、日本を変えてくれよ」というメッセージも。
戦争に行かされるのは、若い人たちです。
見ず知らずの、命のないものではありません。アニメやゲームの世界でもありません。
死んでしまえば生き返ることもありませんし、身も心も傷つき、生涯その傷に悩まされ続けることにもなります。
そんな社会にしないためにも、対話による平和外交を進めていくためにも、全力で頑張っていきます!